結局、15年の不安性・強迫性障害を私はどうやって治したか?

私は15年以上、不安症や強迫性障害といった神経症に悩んでいました。

ちょっとしたミスや忘れ物をしたり、相手の機嫌を損ねてしまったり、余計な一言を言ってしまったり、誰でもあるほんの些細なことでも不安な気持ちでいっぱいになっていました。

そうなると頭の中は不安ばかりで仕事にも集中できず不眠にもなり、ひどいときは不安すぎて外に出ても部屋にいても落ち着かず、布団で唸ってるだけで1日が終わることも少なくありませんでした。

※不安症というのは一般的に神経症(不安障害、不安神経症)とも呼ばれますがここでは全般的に「不安症」と呼ぶことにします。

※本記事は不安症や強迫性障害に悩んでいる方にとって刺激の強い内容かもしれませんので、お読みいただく際はご注意ください。

ただ、最近になって不安を治そうと思うあまり逆に自分自身で不安な気持ちを増大させてしまっていたことに気づき、長い間固執してきた不安への考え方を変えたところ、過剰な不安はすっかりなくなり長年にわたる不安症を治せたことが自分でもはっきりわかるようになりました

気付くきっかけは森田療法という精神療法の本( 「自覚と悟りへの道―神経質に悩む人のために – 森田 正馬 (著), 水谷 啓二 (編集)」 )でした。

 

もちろん事故や災害、アクシデントや不幸など不慮の出来事があれば不安になりますが、それは誰しも「不安になって当たり前」のことです。

悩み続けていた不安症・強迫性障害をどうやって治したか、私の経験談も含めてほんの少しでも不安症や心配症など神経症に悩む方の参考になればと思い書いていきます。

どうやって不安症を治したか?

最初に、どうやって長年にわたる不安性を治したか先にいうと、

「不安な気持ちを消そうとするのをやめた」

というだけでした。これは冒頭で書いたことと同じです。

また、今でも不安になるし恐怖もします。ですが必要以上に不安に「とらわれる」ことがなくなりました

不安を消そうとするのをやめる

といっても「不安を消そうとするのをやめる」というだけでは伝わらないかもしれません。

森田療法でも具体的な特徴が書かれているのですが、不安症に限らず神経症の傾向がある人はおそらく必ずといっていいほど、

  • この不安な気持ちを消したい
  • 不安になりたくない
  • いつでも安心していたい
  • 何が起きても平気でいたい
  • 怖い気持ちを抑えたい

と、不安や恐怖を抑えつけて「消そう」とすると思います。

これは私もまったくその通りで、不安になってしまったらその不安を消すための方法をかたっぱしから試していき、それでも消えない不安にまた不安になる。といった悪循環に陥ってしまっていました。

例えばサプリや健康食品を試したり、おまじないなどあれこれ対処をしようと準備したり試したり、「不安になるとそれを消す努力をする。」そんなことの連続になり、不安になると「どうにかしてこの不安な気持ちを消したい」とばかり思っていました。

不安な自分が恥ずかしい

私は不安になればなるほど周りには言えないどころか態度にも出せず、

  • 「こんなことで不安になるなんて情けない」
  • 「こんなことが不安なんて人には言えない」
  • 「不安になってる自分が恥ずかしい」
  • 「自分には不安なんてない」
  • 「不安を消さなければならない」

と強がって自分の気持ちを誤魔化し、不安を隠してしまっていたのです。

心の中は不安でいっぱいなのに「なんでもない、大丈夫」と周りに言ってしまい、誰にも言えない不安はますます大きくなっていきました

「不安になってはいけない」「不安は異常な感情」と思い込む

人は誰でも不安になります。そして不安になるからこそ生活ができます。

例えば、地震や災害が発生したときに水や食べ物の備蓄がまったくなかったら困ることになります。そうなるかもと不安になるからこそ、あらかじめ備えておこうと買い物に出られます

お金がまったくなくなったら生活ができなくなってしまいます。そうなったらどうしようと不安になるからこそ、大変でも仕事をしてお金を稼ぎ生活が続けられます

雨が続いて川が氾濫しそうな不安があるからこそ予め水害の対策ができます

上司に嫌われたらクビになるかもと不安を感じるからこそ、うまく人付き合いをしようと努力し会社に馴染み貢献ができるようになります

もしまったく不安にならなかったら、水や食べ物を備える気にもならず、お金を稼ぐ気にもならず、ただ行き当たりばったりでいざ事故や災害があったら何も対応できずに、すぐに生活は破綻してしまうかもしれません。

もしまったく不安がなかったら友人や会社の仕事仲間など、人間関係のことなんて何も考えなくなり、自分よがりな意見や行動ばかりになり上司にも嫌われ終いには解雇されてしまうかもしれません

不安は生きるうえで必要な感情です。ところが私は以前、このように誰でも持ち合わせている不安な気持ちを「異常な感情」と捉えていました。

「不安になるなんて情けない」
「不安を排除しなければならない」

と、不安を消そうとしてしまっていました。それも15年以上ずっとです。それどころか記憶も薄い幼少期からずっとだったかもしれません。

誰でも不安になるのが当たり前なのに、その気持ちをなくそう、消そうと思うこと自体が矛盾した考えだったと今では気付けますが、当時は「不安を感じてはいけない」と思い込んでいたのです。

漠然と将来が不安

なにが不安と言っても漠然としていますが、この生活のままで自分は大丈夫だろうかという将来の不安、仕事が続かない自分を思うと社会でやっていけるかという社会への不安、人に嫌われ拒否されるのが怖い人間関係の不安お金の不安など、ぼんやりと先のことに対する不安が強くありました。

不安な気持ちを出せず、隠してきた

私の小さい頃の経験を書いたところで読者の方は興味ないかもしれませんが…、幼少期からの不安も含め回復への「気付き」になるかもしれないので書いていきます。

覚えてる限り、小学校の頃から不安になりやすい傾向がありました。そしていつもとちょっとでも違うとパニックになることもありました。

「不安は恥ずかしいこと」と思い込んでしまう

例えば、小学校の頃、母親の帰りが少し遅いだけで「何かあったのかな、お母さんが帰ってこなかったらどうしよう」と不安になり、ソワソワと家の中を歩き回ったり冷蔵庫を開けたり閉めたり繰り返して落ち着こうと努力しました。

そんなことをしても不安は消えるわけじゃないのに何かしてないと落ち着かないのです。

父親は朝早くに仕事に行き夕方前には帰ってきてるため、私が学校から帰宅した時にはすでに家にいましたが、ただ「母親の帰りがいつもより十数分遅い」という、そんなことで不安になりソワソワしてる自分が恥ずかしいので「不安だ」と言えず普通を装っていました

そしていざ母親が帰ってくるとなんでもありません、ただいつもより多く買い物した程度のことです。

いつも通りじゃないことが不安になったり、また特に理由もないのに急に漠然とした不安に襲われる、そんなことが多くありました。

小さい頃は多くの漫画やアニメを見ていました。漫画やアニメ、映画、小説で登場する偉人は、

「不安なんて感じない強さ」
「こんなことで不安なんて情けない」

といったふうに誇大的に表現されることも多く、子供心の私はすっかり無敵な架空の人物に憧れてしまい「不安をものともしない」言わばうぬぼれた唯我独尊が偉大だと信じ込み、この頃から「不安は恥ずかしい」と思ってしまっていたのです。

お腹を壊すのが恥ずかしい

また、小学校の頃、給食の牛乳を飲むとお腹を壊しやすい私はお昼の時間が苦痛でした。

私が通っていた学校では、大きいほうのトイレに行くのは「恥ずかしいこと」という風習があったため、給食で牛乳を飲みお腹の具合が悪くなっても、意地でもトイレには行きませんでした。

牛乳を飲まなければいいんですが、「出てきた給食を残す」ことは「もったいない」のでやってはいけないと思い、また「残すなんてかっこ悪い」と感じ意地でも飲み切ることしかできなかったのです。

そのため、もよおさないように毎日、正露丸を飲んで登校していた時期もあります。正露丸を飲んでいかないとトイレが不安なので学校にいけなくなっていました。

正露丸も糖衣錠だったとはいえ独特の匂いがけっこう強烈なのです。それを友達に指摘されたことがあり、正露丸を飲んでる言い訳ができずにますます恥ずかしい思いをしたこともありました。

こんな話ですみませんが…、「どうにかなっちゃうんじゃないか」と不安で恥ずかしい思いを隠していた行動の一つと今では思えます。



ひよわな自分が恥ずかしい

小さい頃から色白で痩せていて運動神経が悪く、体育の授業が苦手でした。

ひょろひょろで筋肉がなく、ちょっと押されると倒れてしまう弱さで友達から「ひよわ」と言われることも多くありました。

筋肉がないだけでなく運動能力もまるでなく、みんなが鉄棒で遊んでいた時うまく受け身がとれずに肘を脱臼してしまったこともあります。

中学校の頃はみんな強制的に部活に入らないといけない決まりがあり、迷っていると先生にハンドボール部に誘われました。似ても似つかないほどの高い身体能力を持っていた姉が同じ部のレギュラーだったのもあり、姉のようにさぞ優秀だろうと顧問の先生に誘われたのです。

優柔不断だった誘われるまま部活に入ってしまいましたが、先生の期待とは違い私はまったく運動ができず、ボールもうまく取れないどころか投げるのも下手で、すぐに補欠に回されました。この頃から人と比較される劣等感もよく感じるようにもなりました。

部活は激しく、肩と肩がぶつかり合い押し負けるとすぐに倒れてしまいます。倒れたままでも試合を続行し、「ひよわ、何やってんだよ!」と先生に怒鳴られたことも多くありました。

ここで負けん気が強い選手なら、そこから「負けたくない」と強くなっていたかもしれませんが、私は惨めな自分が恥ずかしく、嫌でたまらなく這い上がるどころか、もう学校に行くことすら苦痛になってしまいました

走るのも一番遅いので練習でも目立ってしまい、のろまな自分が恥ずかしくてたまりませんでした

それでも練習や朝練には出ないといけないため、とにかく体力をつけて「恥ずかしい思いはしたくない」と思っていた私は、「バナナを食べると体力がつく」という噂話を信じ、毎朝バナナを4本も5本も食べて胃が気持ち悪くなりながら学校に行っていた時期もありました

また、「息を止めてると肺活量が上がる」という根拠のない話も信じ込み、走っても息が切れないよう身体を鍛えるために、毎日お風呂で頭までお湯に浸かり何分も息を我慢していた時期もあります。

もちろん、こんなことをやっても何も効果がないどころか、不安で居場所のない気持ちはむしろ大きくなっていきました。

一人では何もできない自分が恥ずかしい

家では親がご飯を用意してくれ、洗濯もしてくれていました。

決してそこまで裕福というわけではありませんでしたが、家で何もしてなくても生活に困ることはなく育ってきた私は、次第に「一人では何もできない自分」が恥ずかしく、情けなく感じ、「一人暮らしくらいできるし、一生この実家にいるなんて嫌だ」という思いが強くなり、高校を出てから逃げるように家を出て一人暮らしを始めました。

ところが、自分で選んだ道のはずなのに、急に守られた環境から放り出されたように感じ、自炊も洗濯も買い物もろくにできず、大きい荷物の運び方もわからない私は「誰もいない、誰にも頼れない」状況が不安でたまりませんでした

それでも仕事を見つけ、それなりに生活するようになった頃に、今度は生活のあらゆることを確認しないと落ち着かなくなりました。

鍵を閉めたか何度も確認する

家を出る時に鍵を閉めたか何度も確認しないと安心できなかったり、帰ってきたら手を洗ったかしっかり確認しないと不安になったりと、自分の行動を確認しないと気がすまなくなっていきました。

それは日に日に強くなり、ある日買い物をするために家を出て徒歩20分ほどの最寄り駅に行き電車に乗ってから、

「あれ、鍵閉めたっけ…」

と気になり不安になってしまい、確認するために途中下車して家までまた20分かけて歩いて戻ると、鍵は閉まっていました。

「ふぅ、やっぱり鍵は閉めてた」

と一安心して、また歩いて駅まで行き電車に乗った途中で、

「あれ、今帰って一回鍵開けたっけ、今度は閉めたっけ…」

と気になって不安になってしまい、また戻ったこともあります。その日はもう遅くなりほとほと疲れてしまい、こんな自分が惨めで生きてるのが嫌になったほどでした。

何時間も手を洗い続ける

「不潔でいると病気になる」と思い、手ばかり洗っていた時期もあります。

自分の手が菌でまみれてるように思い、清潔でいないと病気になってしまう、という思いから、食事の前には手を洗い、部屋に行く前にも必ず手を洗い、パソコンを触る前にも手を洗う、なにをするにも手を洗わないと手から菌が口に入って病気になってしまうんじゃないかと恐怖し、5分おきに手を洗い続けては2時間も3時間も部屋と洗面所を行ったり来たりしていた時期もありました。

ニュースや雑誌を見るだけで不安

不安傾向が強くなっていた時期はあらゆるものが不安に見えてきて、テレビやニュースを見るだけで「誰々が亡くなった、事件があった、災害があった」など不安な情報ばかりが印象に残ってしまい、それまで普通にしてたのに一瞬で不安に襲われるときも多くありました。

一旦そうなると、もし家族がなにかあったらどうしようと不安になり、わざわざ「大丈夫?なにもない?」と連絡をとってしまったことも多くあります。

すると「何?なにかあったの?」と少し呆れられたような反応をされ、

「私はなんでわざわざこんな連絡してしまったんだろう、恥ずかしいことをしてしまった」

と、不安でいてもたってもいられない自分が情けなくて仕方ありませんでした

どれだけ確認しても、ただ生きてるだけで新しい情報が目に付き不安が次々と生まれる現実に対し、逃れられない不安と恐怖で、外にいても不安、部屋にいても不安で寝るのも怖くなり居場所がなくなり布団で涙を流しながら唸ってるだけで1日が終わることもありました。 

一度不安になると取り憑かれたようにソワソワ

いったん不安になると「どうしよう、不安だ」と思い、ますます不安な気持ちは大きくなってしまいます。

不安だから不安をなくしたい。でも不安がなくならないからますます不安。いつまでたったも不安はなくならなく、逃げ場がない状態。

手を洗っても洗ってもきりがなく不安、鍵を閉めても閉めてもきりがなく不安。家族が心配で心配で、連絡をとればとるほどさらに不安

たとえご飯を食べていても、テレビを見ていても「不安をなくすこと」で頭がいっぱいで、「どうやったら不安を消せるか」ばかり考えていました。

それは内向的な自分の思考にばかり注意が向き、客観的にはこれっぽっちも考えてないからこそ不安の悪循環に陥ってしまっていたと、今では気づけます。

不安・恥ずかしい気持ちの裏側には「向上したい」気持ちが必ずある

これは、森田療法でまったく同じことが書かれていて私自身も深く感じたことですが、不安になるということは、その裏側には必ず「人として向上したい」という気持ちがあります。

社会へ適応できずに不安なら「社会へ貢献して立派でいたい」という気持ちが必ずあるはずです。そうでなければ不安になる必要もありません。

家の鍵を閉めたか確認しないと不安なら、「家に泥棒が入らないようにしたい」「家を守りいたい」という気持ちがあるからこそ不安になります。

手を洗っても洗っても不安なのは、その気持ちの裏側には「病気にならずに健康でいたい」思いがあるからこそ不安な思いが生まれます。

また、手が震えて恥ずかしい、人前でうまく話せなくて恥ずかしいという対人恐怖も、その裏側には「上手に字が書きたい」「人前でも立派でいたい」という思いがあるはずです。だからこそ緊張し不安になってしまいます。

どんなに不安でも、不安を消そうとしない

「どうにかしてこの不安を消さないといけない」と思えば思うほど、その不安は強くなってしまいます。

冒頭でも書きましたが、どんなに不安になっても「その不安を消そうとしない」だけで、いつの間にか不安な気持ちはどこかにいってしまいます

ちょうど水に雫が落ちたて波紋がたったら、そのままにしておくとやがて消えるのと同じです。波紋を消そうとバシャバシャいじればいじるほど余計に波がたってしまいます。

不安も同じで、不安な気持ちになったとしても一生懸命消そうと気持ちを揺るがせば揺るがすほど波がたってしまい余計に不安になってしまいます。

森田療法との出会い

不安になったとしても不安対処をしないこと。サプリや健康飲料を飲んだり、おまじないなど「不安を押さえつけようと一切しないこと」が、いわゆる「普通の人」の思考なんだとようやく気付けました。

冒頭でも紹介した、森田療法の出会いその本を読んだことがきっかけです。

ただこれだけのことですが、気付くのに15年以上という長い年月がかかりました。

ただその期間も決して無駄ではないと思っています。その分目から鱗が落ちたような感覚で、今までと違った視点で生きられるようになりました。

どんなに不安になっても「その不安を消そうとしないでそのままにする」というは最初、怖くて怖くて仕方ありませんでしたが、

「不安な気持ちは誰でもあり、不安になるのが普通」

なんだと、次第に思えるようになりました。

決して不安そのものがなくなるわけではありませんが、不安を感じたまま今やっていることを続けられます。

不安な気持ちが「平常心」

例えば、地震が起きて家が倒壊しそうなら不安になるのが普通です。そんなときでも「平常心でいたい」と思うことがそもそも異常で、そのとき「不安を感じてることが平常心」とも言えます。

怖い上司の元に行かなければ行けないときは誰でも不安を感じ緊張します。それなのに、「不安になるなんて異常だ」と思い、その不安をかき消そうとあれこれ対処しようとすることが矛盾した行為といえます。

「不安な気持ち」も一緒に未来に連れていく

これはいくらか抽象的な話ですが、自分の未来を想像したときに、不安や不穏な気持ちは排除したいと考えていました。

未来には「不安が一切ないようにしたい」と一寸の汚れもない理想郷を求めてしまっていたのです。

これがそもそも矛盾した考えで、不安のない生活はありえません。私の過去の経験のもそうでしたが、むしろ消そうとすればするほどますます不安は大きくなってしまいます。

今も不安になるし、将来や人間関係、仕事のことを思うと怖く不安な気持ちもあります。

それでも不安になったときに「この不安をどうにかして消したい」とまったく思わなくなりました。不安な自分のまま先に進むようにすると、そのとき感じていた不安はいつの間にか消えてしまうのです。

少なくとも今までの歪んだ考えの人生とはまったく違い、それまで常に心のどこかに「不安」がついてまわっていたのが今はすっかり目の前のことに向けられるようになりました。

もちろん人として成長できてないので未熟ですが、不安や脅迫的な思考にとらわれることはこの先ないと思えるようになりました。

今も心の片隅に「不安」はありますが、その不安を持ちながら先に進めます。

どんなに不安に襲われても、「その不安も一緒に未来に連れて行く」ようにすると、目の前の仕事や勉強、やるべきことが見えてくるようになると思います。

「どうにかして不安をなくたい」と思いあれこれ対策するのをすっかりやめてしまったとき、本当の意味で不安にとらわれることはなくなった、と言えるかもしれません。

森田療法: 「自覚と悟りへの道―神経質に悩む人のために – 森田 正馬 (著), 水谷 啓二 (編集)」